人事はヒトゴトか?

組織論、人材開発、人工知能に関するトピックについて書いていく。学術的観点と人事の実務の両方の視点を大切に。

日本は定型業務が多いのか?

"ロボットによる代替可能性は,一つの大きなインパクトにはなるでしょう。記事では,日本は「主要国で最大となる5割強の業務を自動化できることも明らかになった」とされています。ロボットに代替されやすい定型的な業務がそれだけ多いということでしょう" (大内伸哉ブログ「アモーレと労働法」より)

 

このブログの元ネタは日経の記事だそうですが、私はその記事は読んでいません。「日本企業の業務の5割が自動化可能」というのはなかなか大きなインパクトがあります。この見出しだけ読むと、「日本企業の業務の自動化は遅れている」と感じますが、僕は別の一面もあると思います。それは、「日本企業のノウハウは自動化できる準備が整っている」ということです。

 

アメリカは属人についていてノウハウが共有されていない仕事が多く、そうした仕事が得てして「独創的」とか「創造的」とか言われていることがあります。しかし、実は同じような仕事が、日本では職場でマニュアルなどで共有化され、誰でもできるようになっていることが往々にしてあります。つまり、日本の組織は暗黙知を形式知に変えて定着化させることに長けているという特長があるのです。形式知化されているものは、そうでないものに比べてAIへの代替性が高いため、冒頭のような結果が出たのではないかと推測できます。

 

「日本はAI化の影響を最も受けそうだ」と見ることも可能ですが、「日本はAIを利用する準備が最も整っている」という見方も可能だと思います。

長時間労働に関する報道・論評の根本的な間違い

長時間労働の報道でよく見かける主張が、「現在の労基法では、36協定を締結し、特別条項を設ければ、事実上無制限に残業をさせることができる」というもの(この後に、「だから残業時間の上限規制を罰則付きで設けるべき」という主張が続くことが多い)である。

 たしかに、こうした36協定と特別条項の締結が合法であることは事実である。では、実際にこうした手法がはびこっているかと言われれば、それは誤りだ。厚生労働省の「平成25年度労働時間等総合実態調査結果」によれば、特別条項を締結している事業場は40.5%で、そのうち98.6%の事業場が限度時間を厚労省が告示している限度基準の年間360時間以内としている。(※企業数ではなく、事業場数で算出されているのは、36協定の締結が企業単位ではなく事業場単位と労基法で定められているため)

 「事実上無制限に残業をさせることができる」ことはテクニカルに可能であるが、実態としてそうした企業はほとんどないのが事実である。

 つまり、すでに協定の締結内容については、厚労省の告示した限度基準が上限値として機能しており、現行の限度基準またはそれに類する基準を上限として法制化しても、現在の長時間労働の問題は解決しないのである。この点が、多くの報道・識者のコメントで世論がミスリードされている。さらに悪いことに、問題解決能力を有すると期待された政労使の三者も働き方改革会議でこの点を見誤って、実効性のない結論に行き着いてしまった。働き方改革会議の提言については、また日を改めて論じたいと思う。

 

追記:Nippon.comという海外向けの日本情報発信サイトにて、「日本の過労死とその防止策」という記事(http://www.nippon.com/ja/currents/d00310/)が配信された。過労死と長時間労働に関する筆者の記述は、前述した誤認識に基づいており、こうしたミスリーディングな記事が全世界に向けて配信されていることは非常に残念である。

長時間労働をどうするか?

 前回、長時間労働の背景について書いた。

 この2,3ヶ月、様々な有識者(自称含む)が長時間労働の撲滅について色々なことを言っている。的外れなものもあれば、それなりに的を射たものもある。ただ、多くの記事が間違っているのが「長時間労働=企業が悪い」という点である。これまで、自分自身が人事の仕事に携わり、また1000社以上の人事担当者と交流してきた経験から言えば、「従業員を死ぬほど働かせて儲けてやろう」と思っている企業はほとんど無い。(あえて「ほとんど」と書いたのは、「会社を継続的に運営するつもりがなく、短期的に従業員・消費者から搾取して収益を挙げよう」と考えている真の意味でのブラック企業がゼロではないためである。)どの企業の経営者・人事部も、従業員が元気で仕事をするのと、疲弊して仕事をするのと、どちらが良いかと問われれば前者を取るはずだ。しかし、なぜ現実がそうなってないかというのは、企業が現在の環境の元で存続するために、やむなく従業員の幸福度を犠牲にしているのである。もし、その犠牲を回避しようとすれば、企業そのものが倒れてしまう。極論だと思う人もいるかもしれないが、現実として少なくない企業がそれほど進退窮まった状況に置かれているのである。

 前回の記事で書いた「製造業中心の産業構造」「製品・サービスへの過度の期待」「解雇規制と労働市場」といった背景は、企業の努力だけで解決できないものである。いずれも日本社会に起因するものであり、これらの背景を変えて長時間労働を無くしていくことは痛みを伴う。産業構造で言えば、先端産業へシフトすることで付加価値と労働生産性はあがるかもしれない。しかし、サービス業や製造業といった労働集約型の産業と異なり、先端産業は知識集約型産業であるため、雇用のパイは小さくなる。また、製品・サービスの品質と価格のミスマッチを解消するには、低価格で低品質のモノが増え、高品質のモノの価格は上昇するため、日本の消費者は品質の低下か価格の上昇のいずれかを受け入れないといけない。そして、解雇規制と労働市場の変革は、労働市場の流動化につながる一方で解雇後に新たな就職口を見つけられるだけの資質と努力が労働者に求められる。

 つまり、我々は長時間労働を取るのか、現在まで享受してきた居心地のいい部分を諦めるのか、という選択を迫られているのである。長時間労働の解消によって生じる負の部分に目を向けず、企業悪者説を唱えている有識者風の人たちは、社会にとっての害悪以外の何者でもない。

 

長時間労働の原因

 先日の記事で、長時間労働がなくならない原因として次の3つを挙げた。

  ①労働時間と業績の相関が高い産業が日本の屋台骨を担っていること

  ②日本人が完璧なサービスが提供されることを当然と思っていること

  ③需要量に対する供給量の調整が、雇用ではなく残業によって行われていること

 

 私がこのように考える理由は以下の通りである。

 一般的に労働投入量と生産物の品質の関係は、y=√x (ただしx≧1とする)のような関係、つまり労働投入量が増加するにしたがって品質の向上度は逓減する。生産物の品質と価格が等価である場合、労働生産性が最大となるのは、x=1のときである。例えば、投入可能な労働力が100ある場合、1つの生産物に100を投入すれば10の売り上げ(=価格の合計)を得られるが、100の生産物に労働力を1ずつ投入すれば100の売り上げが得られる。単位あたりの労働生産性は前者は0.1、後者は1.0である。言い換えると、質の高い製品を少量作ることに注力するよりも、質の悪い製品を大量に作ったほうが労働生産性は高まることになる。

 しかし、実際の経済活動では、品質が悪すぎると生産物は売れない。生産物が売れるための品質の最低ラインは国によって異なる。これは、国民性や所得分布などの影響を受けるためである。例えば、アメリカは品質の最低ラインは低いが日本は高いと考えられる。(アメリカの公的機関の職員、ファーストフードの従業員の仕事の不正確さは日本の比ではない。)つまり、日本のように品質の最低ラインの高い国だと、1つの生産物に労働量を多量に投入しなくてはならず、単位辺りの労働生産性は低下することになる。さらに、こうして供給される高品質の製品やサービスが日本国内の消費市場においては当たり前のものとされ、安い価格で購入されるため、付加価値額は低く抑えられてしまう。例えば、マクドナルドの商品価格は日米でほとんど変わらないが、提供されるサービスの質は日本のほうがはるかに高い。これが②の理由の背景にある。

 また、産業によって労働投入量当たりの付加価値額は異なる。国際的な価格競争にさらされやすい業種などは、付加価値額は低くなる。例えば、製造業などはそれに当てはまる。さらに、労働投入量と生産物の付加価値額の相関が弱い産業も存在する。例えば、先端技術が収益の源泉となっている企業では、研究者の閃きや発見といった労働時間との相関が薄いものが付加価値を生む。そうした産業では労働投入量と付加価値額の相関は弱いと考えられる。しかし、日本においてはこうした企業は少なく、労働量と付加価値額の相関が強い製造業が産業の柱を担っているので付加価値を高め、競争に生き残るために、長時間労働が必要となるのである。これが①の理由の背景。

 最後に③だが、これは労働法制と労働市場の性質が背景にある。アメリカでは自社製品の需要の増減に対して雇用の増減で対応するが、日本では雇用での調整幅はアメリカより小さい。これは、解雇のための要件を労働法(および判例)が設けていて、企業が解雇を行うハードルが高いためである。したがって、需要の波動に対応するために、企業は従業員数を需要量が低いときの必要人員で設定し、需要量が増加した際は残業で対応するという方法を取るのである。特に大企業においては、業績を理由に従業員を解雇した場合、マスコミ(例えば朝●新聞、毎●新聞)や世論からの厳しい批判にさらされるため、解雇という選択肢を取ることが難しい。また、従業員も離職した場合、中途採用で雇い口を見つけることは難しいため、離職に対して同意しづらい環境である。

 長時間労働がなくならない実情にはこうした背景がある。これらをふまえて、長時間労働をなくすにはどうするべきなのか、そもそも長時間労働をなくすべきなのか、という話は次回。

長時間労働撲滅キャンペーンを憂う

こんな程度の認識の人間が長時間労働撲滅キャンペーンの旗振りをしてるのかと悲しくなるコメント。小室淑恵氏のFacebookより。

 

>これは、ほんとーーーに凄い数字!厚生労働省が、100億円の経済効果を出したのと同じ。今まで政府は金融バズーカのような表面的な対策ばかりしてきたけれど、個人の消費は伸びなかった。でも、本来払われるはずだった100億円が(実際はまだ何倍もあるはず)が個人の所得にまわり、使える時間が増えることのほうが、個人消費には、ずっと大きな効果をもたらす。

去年度の「サービス残業代」約100億円、1348社に指導(TBS系(JNN)) - Yahoo!ニュース

 

「支払われた未払い残業代100億円=経済効果」という認識にも疑問があるが、何より呆れてしまうのは、このニュースを見て喜んでしまう感性である。100億円の未払い残業代が支払われたことで誰が喜んでいるのかをよく考えてほしい。対象となった企業はブランド価値が下がり、未払いが発生した現場の管理者は残業代の算定・再発防止策の策定に追われ、残業代をもらえた社員だって自分の会社や職場がダメージを受けている状況では喜べないだろう。誰も幸せになっていないニュースをなぜ喜ぶのか。結局は、彼ら彼女らの長時間労働撲滅運動は「ためにする運動」にすぎないということだ。

 

この時世、コンプライアンスは企業の生き残りのための必須条件であることは大半の企業は分かっていて、建前としても本音としても「サービス残業・長時間労働はさせたくない」と考えている。

 

では、なぜこうした働き方がなくならないのか?

 

その答えは三つに収斂する。

①労働時間と業績の相関が高い産業が日本の屋台骨を担っていること

②日本人が完璧なサービスが提供されることを当然と思っていること

③需要量の変動に対する供給量の調整が、雇用ではなく残業によって行われていること

 

続きは長くなるのでまた今度。では。

ダイバーシティ

 現在、私はアメリカの大学院で人材育成と組織論を学んでいます。この1年あまりで履修した講義の中でよく見かけたのが、「ダイバーシティ」という言葉です。直訳すると「多様性」という意味で、民族・性別・年齢・職歴などにおいて多様なバックグランドを持ったメンバーで組織を構成することを指します。ダイバーシティが進んだ組織は、多様な視点から色々なアイデアを生み出すことができるため、社会環境の変化に適応しやすく成長力があると言われています。ダイバーシティが進んだ企業として、P&G、ディズニーなどが有名で、こうした企業の多くはグローバルな事業展開をしています。

 アメリカでのダイバーシティはビジネスだけでなく、地域社会にも見られます。私の住む街には様々な民族コミュニティがあり、移民向けの住居や教育などのサポートや、各国の文化を体験できるイベントの開催などが行われています。全米レベルで見ると、2008年にアフリカ系アメリカ人のオバマ大統領が選ばれ、今年の大統領選挙でも女性のヒラリー・クリントンが民主党で選出されたことも、ダイバーシティの進展を表す出来事と言えます。

 一方でダイバーシティは一朝一夕に実現せず、たゆまぬ努力が求められます。組織および社会には多様な人材が活躍できる制度・風土をつくることが求められ、その過程で一時的な非効率や抵抗勢力による反発といったコストも発生します。現在、日本でも政府による女性活躍推進など、ダイバーシティに取り組む動きが活発になっています。こうした動きを一過性のブームで終わらせず、継続的に取り組むことがダイバーシティを進展させ、成長力のある日本企業と活力のある日本社会をつくることへとつながると考えます。

日本的人事管理論 太田肇著

 秋学期のIndependent Studyで「日本型人事管理における内部コンサルティングの重要性」というテーマに取り組むこととした。その端緒として、「日本型人事管理」とは何かを探るために読んだ一冊。日本型人事管理の特徴といえば、終身雇用・年功序列型賃金・企業別労働組合の3つが挙げられる。また、これに加えてコース別人事管理や成果主義の導入を論じたものは数多くあるが、個々の制度にフォーカスしたものが多く、これらの制度設計の背後にある考え方や慣習、さらにはその変遷へ踏み込み、日本型人事管理の全体像を描いた書籍・論文は非常に少ない。筆者は、日本人の働き方、特にその変遷について多くの著書があり、この分野の第一人者と言える。

 余談だが、日本型人事管理について示唆に富む内容のブログはいくつか存在する。hamachan氏roumuya氏など。それぞれ、労働行政、人事労務の実務担当者という視点から我が国の人事管理について鋭い分析・指摘・提案をしている。惜しむらくは、ブログというメディアの性質上、体系的な理解には不向きであるという点である。

 さて、閑話休題。本書では、全体を通して、「工業化社会 vs ポスト工業化社会」という図式で、これまでの日本型人事管理の変遷と今後求められる人事管理を論じている。筆者が指摘しているそれぞれのポイントを挙げると以下の通り。

  • 工業化社会における日本企業の人事管理優等生型の人材を求める。優等生型とは、正解がある問題を解くのが得意、既存の知識・技能を習得するのが早い、といった特徴を指す。(p20, p57)
  • 経験値とパフォーマンスに強い相関関係があり、年功序列型賃金を採ることに一定の合理性がある。(p37)
  • 組織と仕事を同一視して、組織に対して強いコミットメントを従業員に対して求める。「組織へ恩を返す」といった考え方に基づいた消極的動機づけが主流。(p49-53)
  • 戦後、人事考課制度を導入し、従業員の選別を図る企業が増加した。しかし、日本企業での人事考課はアウトプットよりもプロセスに主眼を置いているため、評価が主観的になりがちで、人事考課で算出される数字の妥当性に問題があった。そのため、成果主義を始め、様々な評価手法が試されている。(p40-43)
  • 工業化社会においては、インプットの量(主に労働時間)がアウトプットの量に比例しやすいため、長時間労働者が貢献度が高いとみなされがち。(p62)
  • 組織と個人の目標を統合する「直接統合」が主流。(p155)

 

ポスト工業化社会における日本で求められる人事管理

  • 一般化できる可能性のある特殊的能力を持つ人材が求められる。こうした人材の育成には経験を積ませる(修羅場をくぐらせる)ことが有効。(p30, p35-36)
  • 長時間労働よりも創造性が求められる。(p63)
  • コア能力の評価が難しくなるので、1つの物差しではなく、複数の眼で評価を行う「評判」のような評価制度がふさわしい。(p68)
  • 企業主導による人事異動、キャリア形成ではなく、やりたい仕事を選ぶ権利をインセンティブにした人事管理が求められる。(p101)
  • 受動的な動機づけでは成果が上がらない時代なので、金銭による動機づけではなく、承認による動機づけが必要。(p117)
  • 直接統合では環境適応が困難なため、組織と個人が顧客や市場を媒介として目標を共有する「間接統合」が望ましい。(p158)
  • 同一性を基本としたチームワークから異質性を基本とするチームワークへ(p168)

 

 こうした時代の変遷の中で、筆者は元来の日本型人事管理制度はポスト工業化社会で求められるマネジメントに合致すると評価している。(p192) それは、日本型人事管理制度が「あいまいさ」に立脚した制度であるためである。建前と本音という言葉に表されるように、制度や枠組みにとらわれない実情に即した運用が存在したり、人材の選別が入社後の実績に応じて行われる点、暗黙知を重視し徒弟的なOJTで人材育成が行われてきた点は、経営環境の変化が激しい現代において、型にはまらずに対応できるという強みとなりうる。こうした「あいまいさ」は、人事制度の「近代化」で目に見える公平性を追求しすぎた結果、多くの日本企業で失われてしまった。ポスト工業化社会を迎え、元来の日本型人事制度をもう一度見直し、その「あいまいさ」という強みを現代のマネジメントに生かすことができるはずである、というのが筆者の見解である。

 

 私の所感を要約すると以下の通り。

  • 工業化社会vsポスト工業化社会という図式は、第二次産業vs第三次産業や既存の製造業とIT産業という図式にも置き換えられる。これらの両者では求められる人事管理制度は明らかに異なる。
  • 日本では今も製造業の企業が主流であることから、工業化社会型の人事管理が主流である。これらの主流企業がポスト工業化社会型の企業へと変節していく過程で、人事管理の変節がついて来れていなかったり、変化において摩擦が発生したりしているため、多くの企業で人事管理に課題を抱えている。
  • 筆者の挙げる具体的な新しい人事管理手法のうちのいくつか(評判による人事考課、金銭的報酬の軽視)は実効性の疑問があるが、全体としての方向性は非常に示唆に富むものだと評価できる。労働への価値観、外部労働市場など社会環境、日本人の気質といった、従来の人事管理の議論で見落とされがちな点にも目が向けられている。企業の人事担当者・経営者のみならず、行政関係者、コンサルタントなどにも勧めたい一冊である。
  • 一点だけ欠点を挙げるとすれば、参考文献の多くが自著であるため、学術的な面での根拠・客観性がやや弱く感じられた。筆者の意見は、実務家として賛同できる部分が多かっただけに、学術的観点からも頑強な主張にしてほしかった。

評価 ★★★★☆(星4)