人事はヒトゴトか?

組織論、人材開発、人工知能に関するトピックについて書いていく。学術的観点と人事の実務の両方の視点を大切に。

長時間労働の原因

 先日の記事で、長時間労働がなくならない原因として次の3つを挙げた。

  ①労働時間と業績の相関が高い産業が日本の屋台骨を担っていること

  ②日本人が完璧なサービスが提供されることを当然と思っていること

  ③需要量に対する供給量の調整が、雇用ではなく残業によって行われていること

 

 私がこのように考える理由は以下の通りである。

 一般的に労働投入量と生産物の品質の関係は、y=√x (ただしx≧1とする)のような関係、つまり労働投入量が増加するにしたがって品質の向上度は逓減する。生産物の品質と価格が等価である場合、労働生産性が最大となるのは、x=1のときである。例えば、投入可能な労働力が100ある場合、1つの生産物に100を投入すれば10の売り上げ(=価格の合計)を得られるが、100の生産物に労働力を1ずつ投入すれば100の売り上げが得られる。単位あたりの労働生産性は前者は0.1、後者は1.0である。言い換えると、質の高い製品を少量作ることに注力するよりも、質の悪い製品を大量に作ったほうが労働生産性は高まることになる。

 しかし、実際の経済活動では、品質が悪すぎると生産物は売れない。生産物が売れるための品質の最低ラインは国によって異なる。これは、国民性や所得分布などの影響を受けるためである。例えば、アメリカは品質の最低ラインは低いが日本は高いと考えられる。(アメリカの公的機関の職員、ファーストフードの従業員の仕事の不正確さは日本の比ではない。)つまり、日本のように品質の最低ラインの高い国だと、1つの生産物に労働量を多量に投入しなくてはならず、単位辺りの労働生産性は低下することになる。さらに、こうして供給される高品質の製品やサービスが日本国内の消費市場においては当たり前のものとされ、安い価格で購入されるため、付加価値額は低く抑えられてしまう。例えば、マクドナルドの商品価格は日米でほとんど変わらないが、提供されるサービスの質は日本のほうがはるかに高い。これが②の理由の背景にある。

 また、産業によって労働投入量当たりの付加価値額は異なる。国際的な価格競争にさらされやすい業種などは、付加価値額は低くなる。例えば、製造業などはそれに当てはまる。さらに、労働投入量と生産物の付加価値額の相関が弱い産業も存在する。例えば、先端技術が収益の源泉となっている企業では、研究者の閃きや発見といった労働時間との相関が薄いものが付加価値を生む。そうした産業では労働投入量と付加価値額の相関は弱いと考えられる。しかし、日本においてはこうした企業は少なく、労働量と付加価値額の相関が強い製造業が産業の柱を担っているので付加価値を高め、競争に生き残るために、長時間労働が必要となるのである。これが①の理由の背景。

 最後に③だが、これは労働法制と労働市場の性質が背景にある。アメリカでは自社製品の需要の増減に対して雇用の増減で対応するが、日本では雇用での調整幅はアメリカより小さい。これは、解雇のための要件を労働法(および判例)が設けていて、企業が解雇を行うハードルが高いためである。したがって、需要の波動に対応するために、企業は従業員数を需要量が低いときの必要人員で設定し、需要量が増加した際は残業で対応するという方法を取るのである。特に大企業においては、業績を理由に従業員を解雇した場合、マスコミ(例えば朝●新聞、毎●新聞)や世論からの厳しい批判にさらされるため、解雇という選択肢を取ることが難しい。また、従業員も離職した場合、中途採用で雇い口を見つけることは難しいため、離職に対して同意しづらい環境である。

 長時間労働がなくならない実情にはこうした背景がある。これらをふまえて、長時間労働をなくすにはどうするべきなのか、そもそも長時間労働をなくすべきなのか、という話は次回。